生きるよろこび
北の丸に行ってきた。
武道館しかり、ここら辺りに来るといつもわたしの想いは江戸城と春日局へと馳せる。
目的地は東京国立近代美術館。
熊谷守一「生きるよろこび」。
初期作品から晩年まで、人生の出来事と共に変化して行く作品たちは、文字通り氏の歩んだ人生のスケッチ。
電車で惹かれた女性を目撃して描かれた「轢死」は、経年劣化により、茶色を主色とした混沌とした画面となっていたが、それはもしかしたら、運慶の仏像のように、そこに宿る念の年齢があってこそなのかもしれない。やがて氏は、光と影の境を赤い線で描き始める。その赤は、酸素に触れた血液のように深く、山の稜線も女性の身体も、その縁取られた赤以外、この世に赤はないかのように感じられた。やがて氏の絵は、稜線も影もないものになる。70歳以降は庭と家が自身の世界の全てとなっていたようで、草花や虫が優しく温かく、シンプルに描かれるのだった。
「生きていたい。
みみっちいかもしれないが命が惜しい。」
という氏の言葉は、轢死した女性や、先立っていった子供たちから氏が授かった何かしらの深く強いチカラを感じる。
横たわる萬さん(娘さん)の顔が2つならび、最後の一枚は普通に縦になっていた。その一枚は「死んだ者は横たわっているが、その絵を縦にしたら生き返る」というような解説と共にあった。
出口で「向日葵」のポストカードを買った。幼い頃の息子によく似ている。もし子供に先立たれたら、命を惜しいと思う事はできないだろう。そこまでの才能などない。しかしこの「生きるよろこび」というこの作品展のタイトルは、わたしに優しく問いかけてくれたし、人生を温めてくれた。
わたしはよろこんで生きているだろうか。くるしい記憶は、こうして何か心にあるチカラと共に、外に押し出して行くべきなのだろう。何か出来るのだろうか。もっと。
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