紙の月ホテル1210号室

車の助手席で、わたしは携帯電話を見ていた。ワタルのラインのホームに貼ってある美しい風景。ヴェネツィア。

「ようこちゃんみたいな人だったんだ。女じゃない。たぶんゲイだと思う。前にタイ料理で働いてたでしょう?あの時に、店のオーナーがその人を頼ってた。飲食店のプロデューサーをやってて、イタリアに100回くらい行ってる。ようこちゃんに紹介したかったけど、あの頃のようこちゃん、素直に他人の話聞けなくなってたから」

他人の話を聞けなくなっていたのではない。あなたがいつの間にか他人になっていただけ。言い訳はある。が、わたしがワタルになんかわたしの苦労はわかりっこないと心の隅でずっと思っていたのも事実であるから反論はない。息子とワタルに、苦労をかけたくないという決心は、誰かの意見云々でどうなるものでもなかったし。まぁどちらにせよ、いま言い訳する事でもない。それより話の続きが聞きたい。

「違うよ(イタリアには新婚旅行で行ったのではない)。旅費を自分で出してその人について行ったんだ。なぜかはわからない」

わからない。そうワタルはいつもわからない。強いて理由を探せば「そうした(い)」かったから、なのだから。いつもそうだ。
しかし、ワタルはこの話になってからずっとどもっている。ワタルがどもるのは本当の気持ちを伝えたい時だから、たぶんこの全てが本当なのだろう。黙って聞く。

「行きたいんだよ、ようこちゃんの家に。ほんとうなんだ。ほんとうだよ?」

珍しく感情がこもっている。その人のどこがようこちゃんみたいだったのか聞きたかったが、突如何かモードが変わったのだろう。ワタルにはよくある事だ。

(家に来てって言ったかなぁ)

ワタルはハンドルを右手で持ち、左手でわたしの右手を探して握った。片手運転で前方を見ながら、握った手を口元に持っていき、わたしの手の甲にキスをした。

「でもね、いまはだめなんだ。少し待ってて。ちゃんと考えるから」

ワタルはわたしの膝にわたしの手を戻し、じぶんの左手をハンドルに戻した。わたしは、家に来てと言ってない。でも、そうなったらいいのに、と思っているのかもしれない。ワタルは「声でわかる」人だから。

「うん」
とだけ答える。夜の環八は空いていて、この先の角を曲がればもう駅だ。

「家まで送って歩いて駅に行くよ」
「遅いからいい。風邪ひくよ」
「また来週近くに来るから」
「うん」

ワタルのいた運転席は広く、わたしは座席とバックミラーを直した。家についてベッドに入る。ワタルはどこに帰ったのだろう。ざわざわと心に風が吹いて、わたしはいつの間にか泣いた。自分の心がわからない。もうずっと。でもそれはワタルのせいじゃない。目を閉じる。

(7時間寝よう)

とにかく寝なければ、わたしは治らない。

※このお話はフィクションです。