紙の月ホテル1208号室

急の雨で傘がない。
「ようこさん、持って行ってください」
ネイルサロンのマミちゃんが傘をくれた。
「返却不要ですよー」
夏からほったらかしの足の手入れをお願いして、ついでにちょっと昼寝をしようと企んで、マミちゃんのお店に来た。マミちゃんは独立して一年半。
「いい感じでもないですよー。売り上げも相変わらず、彼氏もいないですしー。ようこさんはお元気でしたか?」
マミちゃんは細い電動ヤスリで小指の端の角質を削っている。小さな音が心地よい眠りを誘う。目覚めると手入れはほぼ終わっていた。
「相変わらずお疲れですね!」
「いびきかいてた?」
「寝言言ってましたかねー」
「え、ほんと?」
「あはは!嘘ですよー!」
寝言は怖い。かつて隣で寝ているワタルが、なんとか子は僕のものだ、と知らない女の名前を呼び、わたしを強く抱き寄せた事がある。カッと来て、ワタルの胸をドンっと叩き、ベッドから出た。ワタルは、突然だが受けて当然の攻撃に夢から戻り、どうしたの?とふにゃふにゃ言っている。
「誰が僕のものなの?」
「え?なに?」
「いま寝言言ってた」
「なんて」
「誰かは僕のものだって」
なぁんだ、やきもちかー、誰もいないよ、ようこちゃんかわいい、おいで、寝よう。
ーーー誰もいないよ。
ーーー何もないよ。
信じる事の方が幸せだったんじゃないの?と、爪先が呟く。美しく仕上がった紅いジェルネイル。誰かに見てもらえるわけでもないのにね、と心が答える。

※この物語はフィクションです。