カタストロフと美術のちから展

クリスマスイブ。食事を終え、息子と森美術館に掲題の展示を観に行く。カタストロフの意味は大惨事。自然災害、戦争、テロ、難民問題、そして個人的な悲劇まで、その時美術は何ができるのか、というテーマであった。パンフレットには、負を正に転ずる「美術のちから」の可能性について改めて問い直す、とある。息子は7歳で訪れた「長崎を思い出す」と、作品をゆっくりと眺めていた。
私はその大きく成長した息子の背を眺める。世が世なら、そしてこの歩みが何かしらのカタストロフ点と一致してしまったら、彼はここに存在しない。もちろんそれは私やあなたも同じだ。作品のひとつに、原子爆弾投下の様子を美しいと感じてしまったアーティストの動揺が綴られていた。動揺。その言葉は、熊谷守一氏も作品に寄せていた。我が子のデスマスクを描く自分に動揺した、と。それを読んだ時思った。真の才能とはそのようなものなのだろうな、と。誰のためでもなく、自分の指先から溢れる。かたちになる。自らの創造が善なのか悪なのか分からず、「ちから」があるゆえに動揺する人。良くも悪くも偉大なその「ちから」は神のようだ。荒れ狂う自然や歯止めの効かない無秩序な人間に動揺し、また新たな破壊と創造を続ける神。上昇なのか下降なのかわからない、ギリギリの線上を歩む恐怖と高揚、そして動揺。

御心(みこころ。神の決めた事)ならば、とくるしみも悲しみも受け入れて生きる。それだけでもヘトヘトだと弱音を吐く日もある。過去もこの先も参事に対して自分が偉大な何かができるとは思えない。でも私は創造のちからを信じる。アートなんてなんになる?と思う人はいるだろう。でも私は過去、ヨーコ(オノ)の作品にぐしゃぐしゃに泣き、彼女の祈り(作品)がギリギリの「ちから」を保ってくれた

写真はヨーコの作品。彼女ならではの参加型インスタレーション。過去・現在・未来が完成させる。私もヨーコの創造の一部。ペチペチとなるクレパスの海の上を歩き、空にLOVEと描いた。


O hear the angels' voices
O night divine
O night when Christ was born
A-men